浄閑寺とその周辺

前回に引き続いて、吉原にまつわるお話です。
今回は遊女の投げ込み寺として有名な浄閑寺と、その周辺について書きたいと思います。

東京都荒川区南千住 浄閑寺 新吉原総霊塔

都電荒川線の三ノ輪駅近く、日本堤と言われた土手(現在は道路です)の端に浄閑寺はあります。
創建は1665年なので、吉原が移ってきた年の二年前になります。
それから二百年経った1855年の安政の大地震で多くの遊女が犠牲になり、このお寺に集められて以来「投げ込み寺」と呼ばれるようになりました。

東京都荒川区南千住 浄閑寺

浄閑寺には彼女たちを祀る新吉原総霊塔や、永井荷風の文学碑と筆塚などがあります。
総霊塔には、その後の関東大震災、東京大空襲で被害にあった遊女たちも祀られています。

東京都荒川区南千住 浄閑寺 新吉原総霊塔

現在でも多くの人々がこの霊塔を訪れているようです。
霊塔には化粧品や装飾品が置かれていたのが印象的でした。ここに訪れたのは、この土地や遊女に縁のある人々なのでしょうか。それとも歴史や文学作品に触れて興味を抱いた人々なのでしょうか。その多くは遊女たちの人生を思い、自分と照らし合わせながら霊塔に手を合わせたに違いありません。

東京都荒川区南千住 浄閑寺 永井荷風の筆塚

私の好きな永井荷風も、吉原に思いを馳せたひとりです。
江戸から明治への近代化、そして震災や戦争といった転換期を見つめながら、そこに生きる人々の心に思いを馳せた荷風は、吉原の遊女たちにも強く惹かれたことでしょう。すぐ近くの浅草の歓楽街、隅田川の向こうの玉の井の私娼窟と同様に、彼は小説の取材のためにこの辺りをよく訪れていたそうです。

東京都台東区清川周辺

そして吉原周辺は遊女だけでなく、廓の外にいた人々も注目に値します。
浄閑寺をすぐ東に歩けば泪橋の交差点があり、玉姫稲荷神社の周辺、昔は山谷と呼ばれた場所に今も日雇い労働者向けの宿泊施設が並びます。明治初期までは小塚原刑場もありました。
また、北側を歩いても、南千住や荒川の古い工場跡を見ることができます。
以前のこの辺りは幸せな暮らしができなかった人々も少なからずいたようです。

江戸から明治、大正、昭和へと近代化が進み、平成となった今ではずいぶん穏やかな時代となりました。街は新しくなり、人もめまぐるしく入れ替わって、過去の出来事は暗渠のように覆い隠されています。
それでも朽ち果てた遺構を見つけると、想像の助けも手伝って、それが蘇ってくるような気がします。現在の平和も、蓋を開けてしまえばすぐに崩れ去ってしまうような危うさを感じられずにはいられません。

永井荷風の小説や随筆、そして樋口一葉の小説は私たちの想像力を高めてくれます。
特に一葉の擬古文はとっつきにくいですが、当時の哀切や苦しみ、そしてささやかな幸せを感じるような、“美しさ”が漂っています。
「たけくらべ」は言わずもがなですが、「わかれ道」などの作品を読んでも、遊女だけでなく廓の外の人々の人生を垣間見ることができます。改めて読み返すと、新たな発見ができるかもしれません。

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