祖母のこと

戦前の東京に、鯱丸という名の芸妓がいました。
今回は、芸妓だった私の祖母についてお話ししたいと思います。

塩澤源太:祖母の写真(尾久町にて)

私の母方の祖母は、大正十四年(1925年)に山形の米沢で生まれました。
女学校を卒業するまでそこで暮らし、それから東京・尾久町の置屋に預けられることになりました。

塩澤源太:祖母の写真(尾久町にて)

祖母は鯱丸(しゃちまる)という源氏名でした。
尾久町といえば、阿部定(失楽園)事件が有名ですが、昭和11年(1936年)に起きたので祖母が来るより少し前の出来事になります。平凡な工業地だった場所にラジウム鉱泉が沸き出して、尾久町は温泉のある歓楽街になりました。現在は町名が消え、南千住や日暮里、三河島などに変わりました。鉱泉が枯渇して街は廃れ、風景も様変わりしました。今では歓楽施設として運営されていたあらかわ遊園が残るくらいになっています。

塩澤源太:祖母の写真(幼き頃)

祖母がわざわざ米沢から東京の置屋に引き取られたということは、生活が苦しかったことが要因だと推察できます。しかし、そこまで困窮していなかったようなので、祖母自身が希望したことかもしれません。結局その理由は母もよく分からないと言っていました。
祖母は女学校を卒業していたので芸妓になるには成長しすぎて(14〜15歳くらい)いましたが、そこから芸事をすぐに修得し、座敷に出ていたそうです。

塩澤源太:祖母の写真(尾久町にて)

彼女はその後、岡山の軍事工場を経営する男性と婚約をし、私の母を身籠ります。しかし出産間際、戦争による空襲でその男性(私の祖父にあたります)を亡くしてしまいます。
戦後、すべてを失った祖母はそこで諦めず、自力で生計を立てます。

池袋にある西池袋エビス商店会に小料理屋を開いて切り盛りしていましたが、不運にも火災に遭い、すべてを失くしてしまいます。
普通ならそこでくじけてしまうところですが、祖母は再び店を開きます。
今度は「池袋大踏切」(第二鎌倉踏切)と呼ばれた70mもある踏切の袂で大衆食堂を始め、連日賑わいをみせる繁盛店に成長させました。少し距離の離れた豊島区役所にも頻繁に出前をしていたそうです。
因みに踏切はなくなってしまいましたが、そばにあった小安稲荷は今も同じ場所に鎮座しています。
そして南池袋に移ると小さな割烹料理屋を開いて、母や曾祖母の面倒をみていました。

とはいえ、必ずしも女ひとりであったわけでなく、いくつか恋をしたようです。
母には歳の離れた妹がいます。しかしその父親の男性とも不遇の別れがあり、最後はやはりひとりでした。

塩澤源太:祖母の写真(祖母と二代目尾上松緑)

祖母はそれでも、生きることに前向きな人でした。
歳をとってからも、小唄や踊り、三味線を続けていました。
日本舞踊に関しては、歌舞伎で有名な二代目尾上松緑(二代目藤間勘斎 ※上写真の右から二番目)率いる藤間流の名取となり、小唄では師範になっています。弟子も抱えながら、よく発表会に出演していました。

塩澤源太:祖母の写真

私が思い出す祖母の姿は、家でも着物を着て、きちんとお化粧をしている姿です。そして火鉢の脇で煙草を吸い、夜は麻雀をして、お酒もよく飲む格好いい姿です。
そして気が強いうえに礼儀作法に厳しくて、私も近寄り難いイメージがありました。

塩澤源太:祖母の写真

しかし陽気で茶目っ気もあり、私が成長するにつれて本来の優しさを見せてくれるようになりました。
母いわく、非常に自分本位な性格だったそうです。しかしながら、そんな性格でなければこのようにたくましく生きることはできなかったのだと思います。

このコラムだけでは語り尽くせないほどの人生を送った祖母は、私が中学三年の頃に病気で他界しました。その一年前にふたりだけでディズニーランドにデートしたことがあるのですが、とても可愛らしくはしゃいでいました。
もう少し長く生きていたら、祖母の話をもっと聞くことができたのにと、残念な気持ちになります。彼女の歩んできた人生を知り、どのような気持ちで生きてきたのか探ることができたかもしれません。

塩澤源太:祖母の写真

今となっては彼女を知る人も、私や家族を除いてほとんどいなくなってしまいました。
尾久がかつて三業地があったことを知らない人が増えたように、ひとりの女性の人生は雪の粒のように儚く消え去る運命なのかもしれません。

いずれ祖母の人生をまとめて小説にしていきたいと思っています。
そこから彼女の経験や心情が未来の世に溶け交わってくれたなら、孫の私にとっても喜びとなるでしょう。

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