心象を写し取る

頭にふと浮かぶもの、心にふと現れるもの。それらはあるときに偶然訪れるもので、再訪するときもあれば、二度と訪れないものもあります。

東京都文京区本郷

このコラムを続けていて、その刹那の思いはほんのわずかに文章として留めることができています。手に触れると溶けてしまう雪の粒のようで、なんだか愛おしくもあり、そのまま書き留めてしまうとあまりに素直な感情として描かれるため、隠すようにフィルターをかけてしまい、魅力が半減することもあります。

それを避けるために最適な手段は、今のところ日記をつけることが一番なのでしょう。誰にも目に触れられる心配がないので、恥ずかしがり屋の方にお勧めの記録装置です。とはいえ日記でも、心によぎったことをありのままに留めておくことはできません。なぜなら用いる文字や言葉は簡略化された記号だからです。眼に映る色彩のように境目のない心象はふくよかであり、文字という記号で表現するには情報量が多すぎるためです。写真や絵にしたり、音楽や歌声を頼りにすることもできますが、それらでさえもフィルタを通して表現されるものです。技術力を伴うような記録手段では、心象をありのままに映し取ることはできません。

もしかするとコンピュータやセンサーが発達して、心象をありのままにトレースすることができる時代が来るかもしれません。特定の時期に思い描いた心象を、目の前に映し出すこともできたなら、とてもロマンチックであり、心のよりどころになりうるかもしれません。しかしながら現在の技術力では、それは叶うことはありません。

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そうであれば私は、今現在可能な手段で心象を記録していきたいと思います。なぜならオリジナルにこだわるよりも、消えゆく心象を少しでも掴み取りたいと思うからです。そしてこのコラムや小説、写真などの手段を複合的に用いれば、それらの隙間にわずかに残されるかもしれません。

ところで、なぜそこまで心象を掴み取りたいと願うのかはわかりません。もしかすると、いずれ消えてしまうことへの不安、生きることへの執着なのかもしれません。人によっては子孫を増やして遺伝子を受け継がせたり、偉大な業績を残すことで生の執着を全うしようとするかもしれませんが、私はもっと個人的な範囲の中で、それを全うしようと願っているのかもしれません。

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