普通に生活していると、人は「生きていること」を忘れてしまいます。それよりも、仕事など目の前で起きていることに関心が向き、さらには暇つぶしや趣味に目を向けるようになります。
これらは幸福を享受している証明ではあるのですが、人間という生き物である以上、必ず「死」に相対する場面がやってきます。自身や家族の病気や死は、どのようにしても避けられないものとして控えており、その時になって初めて自分自身が「生きているのだ」と悟るのです。
もちろん私も例に漏れず、時々生きていることを忘れてしまうことがあります。しかしながら、飼っている猫や、自宅の庭にやってくる馴染みの野良猫たち、そして植木の草花たちを通して「生きること」を実感する機会があります。
私は昔から、猫や金魚、その他にも多くの動物たちと生活を共にしてきました。それは、自然学者や動物園の飼育員などとは比較にならないほど一般的で、凡庸な経験です。しかしながら、それらは他の経験と比較することができないほど大きな思慮を与えてくれる場合があります。彼らとの生活を通して、私は「死に備えること」、とりわけ「死に馴れること」を学んだような気がします。
死は必ずやってきます。これは生き物として生まれた以上、抗えない事実です。ですから、私はなるべく死ぬことに対して恐怖を覚えず、当たり前のこととして捉えるようにしています。猫たちは私たち人間よりも短命で、一緒に暮らしているのであれば必ず死を看取ってあげなくてはなりません。そして、親は自分よりも早く死ぬ可能性が高いので、やはり看取らなくてはなりません。
よく「命に大きいも小さいもない」という言葉を耳にしますが、心にダメージを与える大きさで言えば、より自分の姿かたちに近いもののほうが大きいと思います。私の場合、猫か家族かと問われるならば、やはり家族の死が大きなダメージとなります。この法則は生き物を飼う場合にも当てはまり、私は「独り暮らしでなにか飼いたい」と言う人々に対しては、植物から始めたほうがいいと薦めています。
植物は生物学的に遠縁の存在でありながら、きちんと世話をすれば応えてくれますし、こちらの愛情も深まります。しかしながら、枯らしてしまった時の悲しみは、猫や犬などの動物に比べて小さいと思います。もちろん、個人の捉え方によって異なるとは思いますが、この法則はあながち間違っていないと思います。ですから、生き物を飼いたい気持ちはあれども飼う自信のない方は、植物、魚、猫、犬のように、次第に自分に近い生き物を選択していくのが良いのではないかと思います。
人はそうやって、あらゆる生き物たちの死を看取って心を慣らし、最後に最も大きな死、家族や自分自身の死に備えていけるのだと思います。
小品(しょうひん)盆栽でも、メダカでもミナミヌマエビでも、雑種の猫でも、皆一所懸命に生きています。彼らと一緒に過ごすことによって、自分や全ての生き物が「生きていること」を実感できたら素晴らしいと思っています。