自分自身の哲学

パスカルは「人間は考える葦」という名言を残しましたが、実際に自分が毎日何を考えているのか思い起こしてみると、意外に何も考えていなかったなと感じます。もちろん、仕事ではワークフローやプロセスを考えたり、コスト低下や生産性の高くなるアイデアをひねり出そうと日々頭を使っています。しかしながら、自分自身の人生観や価値観などについては、何ひとつ考えていないことが多いような気がします。

東京都文京区大塚 護国寺

私はコラムを書いているので、五日に一度は思考の海に漂う機会に恵まれているのですが、ふとキーボードに指を触れた瞬間、何を書いてよいのか分からなくなることもしばしばです。従って、毎回同じような内容の文章を書いてしまうことが多々あります。

暇な時間にスマートフォンを手にする際も調べ物はしますが、思考を巡らすために使っているようには思えません。対象となる事物がはっきりとしたもの、例えば欲しいものだとか、趣味としているものを選んで調べているような気がします。もっと自身を表現するもの、自身の心の中を顕在化させる哲学的なものの考え方は、よっぽどのことがなければ行なうことはありません。

この原因として、モノや情報が溢れている外部環境によるものが大きいと一般的には言われますが、実際はその機会を作ろうとしない自分自身の働きかけに起因しているように思います。
私は若かりし頃に、読書感想文や小論文を書いて気がつきましたが、知り得たことや感じたことに対して意味を持たせ、自分自身で結論を導こうとする姿勢や好奇心が何より大切なのだなと感じました。

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しかしながら、それを聞くのは自分以外の人々とっては退屈なものであります。インターネットで人々の検索するキーワードを見ていると如実に分かります。例えば、私のサイトに訪れる人たちの関心事は、夏目漱石や野鳥に関してです。その対象なくしては、私の考え方なんてまるで興味がありません。言ってみれば、飲み屋で酔っ払った上司の人生論や、朝礼の校長先生の話を聞くのと同じなのです。

最近では、偉大な哲学者や小説家の考え方に触れることも退屈とされます。一見、高度な知識を身につけているように見える人々も、刺激が強くて理解に時間を要しない情報を得ることに終始している傾向にあるように思います。そして、それを鵜呑みにし、自分自身で感じないまま結論も導き出さないまま、自身の考え方としてすり替えているような気がします。もちろん、私自身がそのような傾向にあるので、もっと腰を据えて自分の頭で考え、自分自身の哲学を見出せることができるように取り組んでいきたいと思っています。

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