名前の自己暗示

私の名前は「源太」ですが、「源」には「水が流れ出るもと」だったり「物事が起きるもと」という意味があります。世の中になにかを広める根源であったり、解釈を広げると世の中に存在しなかったもの、唯一無二のものを生み出す意味にも捉えることができます。

東京都荒川区荒川

また「げんた」という音の雰囲気は、どこか愛嬌がありながら独創的で、なんとなくですが、私は「オリジナリティ=創造するような存在」であると解釈しています。解釈というよりは自己暗示に近いと思っています。

その自己暗示に導かれてか、私はクリエイティブな生き方を選び、幼いころから絵を描き、芸術系の大学に進学し、デザイン系の仕事に就きました。名前自体もクリエイティブな作業もとても気にいっています。

しかしながら、その名前によって苦しんでいることもあります。源を広める対象や環境が自分を受け入れてくれず、まわりの型にはまろうとしても、実力が足りずに苦悩することがよくあります。また、私の源を磨くためには相当にストイックにならなければなりません。

「節」という字が含まれる私の親しい人は、その意味に「節度」を強く感じています。他者のことなど考えず、伸び伸びと過ごすことができない苦しみに必要以上にとらわれています。これは彼女が他者の期待や望みに応えてあげたいという優しい気持ちから起きていることなのですが、名前という自分の分身が影のように暗示をかけ、苦しませている典型のように感じます。

名前は「ならねばならない」というプレッシャーを与えるものでありますが、逆にとらえれば本来の自分を知らせてくれたり、進むべき道を指し示しめしてくれるよい相棒でもあります。私はよく「俺」という一人称ではなくて「源太」という言葉を用いて、自分の心の中に問いかけるようにしています。

Scroll to top