目に映るものはいつも変わらず、ありきたりなもので溢れている。ときには美しい風景のあるところへ趣き、安らぎを得たい。そんなふうに思うことがあります。
しかし、どんな些細なものでもじっくり観察してみると意外な発見があるものです。以前のコラムでもお話ししたように、草木や空、鳥や動物たちはとても興味深いものです。視点をぎゅうっと狭めて観察してみると、そのような魅力に溢れるものたちが見えてきますが、それとは逆に、ぼうっと見ている風景にも意識を傾けてみると、また違った魅力があることに気づきます。
魅力ある風景というのは、そんなに特別なものではありません。
仕事に明け暮れている人にも、生活に余裕のない人にも、魅力ある風景は必ず存在します。
例えば、通勤時の風景。満員電車で苦しくても、寝不足で目が開かなくても、家から駅まで歩くときには空が見えるでしょう。足元にはコンクリートに咲く花が見え、耳を澄ませば鳥のさえずりが聞こえてきます。垣根には朽ち果てた椿、道端には新芽をのぞかせたイチョウ、ビルの間からは傾きを変えた朝日。なんとも情緒的な風景が広がっています。
自然は一日毎にその表情を変え、そのときの自身の出来事と一緒に心に刻まれていきます。
その一瞬をカメラのファインダーに見立てて、少し意識を集中して記憶してみてはどうでしょうか。旅行のように特別な場所に行かなくても、素敵な風景に出会えるに違いありません。
例えば、水辺の公園に散歩したとします。水のゆらぎや、映り込む草木、日射しの表情。またすぐに出会えるかもしれないけど、そのときにしか出会えないような気がします。だからこそ切なく感じますし、再び出会える安心感もあります。
何気なく握っていたボートのオールを見つめると、その先にある水辺の美しさに気づきます。日はゆっくり傾き、暦はすでに春なのだと実感します。
公園を歩く足元には枯れ葉が幾重にも重なり、冬の痕跡がまだ残っていることがわかります。すぐそばの植物にはてんとう虫が隠れていて、彼らも小さな身体で厳しい冬を越したのだと想像します。
人は当たり前のように刺激を追い求め、だんだんと感覚が麻痺しています。スマートフォンやテレビが提供してくれる情報は次第に私たちを鈍感にさせ、些細なものに対する感受性さえも奪っているように思います。しかしながら、目に映る日常的なものはとても輝いていて、感動的で、本来持っている感受性を取り戻してくれます。
もし私が、命ある最期の日に見たいものがあるなら、明らかに日々の営みのなかで見てきた風景です。
世界はこんなにも美しく、ありきたりなものとして身の回りに溢れています。どんなに忙しくても、そんな些細なものに目を向けられる心の余裕だけは失わないようにできれば、毎日が少しだけ特別なものとして感じることができるのかもしれません。