淡くて脆い歴史:夏目漱石と大連

私は中国の大連に住んでいます。
この街はご存知のように、日本と深い係わり合いがあります。
1904年に勃発した日露戦争後、大連は日本の管理下におかれていました。
南満州鉄道が大きな支配力を持ち、都市整備などが行われました。
1909年には夏目漱石が大連を訪れ、朝日新聞に「満韓ところどころ」という随筆を連載しています。
夏目漱石は満鉄総裁の中村是公という人物に招かれており、当時の満鉄の影響力が伺えます。

Russian Style Street, Dalian, Liaoning, China

大連での旅行中、夏目漱石が泊まったといわれるのがヤマトホテルです(上写真の奥)。
ヤマトホテルは、現在の「ロシア風情街(旧ロシア人街)」と呼ばれる場所にありました。

Dalian, Liaoning, China:勝利橋(旧日本橋)

ロシア風情街に入る正面には、日本橋と呼ばれた勝利橋が架かっています。ひとつの橋のように見えますが、補強のために新しい橋と併設されているそうです。

大連芸術展示館, Dalian, Liaoning, China

ロシア風情街の入口には、大連芸術展示館という建物があります。これはロシアの東清鉄道汽船会社の社屋でしたが、戦後に取り壊されてしまったので、北九州市門司港にあるレプリカをもとに復元されているそうです。レプリカながら、家屋の細かい部分に100年前の美しい装飾が見て取れ、眺めていて飽きることがありません。

旧ヤマトホテル, Dalian, Liaoning, China

ロシア風情街の道を抜けていくと、ヤマトホテルに辿り着きます。
この建物は、初代大連市役所(東清鉄道事務所)から満鉄本社、ヤマトホテルとなり、満州物質参考館、満蒙資源館、満州資源館、最後は大連市自然博物館となってその役目を終えています。

旧ヤマトホテル, Dalian, Liaoning, China

その歴史は100年以上となり、建築史からみてもかなり価値の高いものと思われます。しかしながら今は荒れ果てて、無惨な姿を晒しています。「満韓ところどころ」では漱石が泊まったときの様子が描かれていますが、その優美さは見る影もありません。

Russian Style Street, Dalian, Liaoning, China

ロシア風情街の表通りにはロシア風の建築が幾つも並んでいるのですが、実際は最近建てられたコンクリート製のものです。復元というかたちではなく、歴史的には全く価値のないふざけたものばかりです。しかしながら、裏通りに入ると当時の建築が残っています。

Russian Style Street, Dalian, Liaoning, China

しかし残念なことに、これらも荒れ放題でスラム化しているといっても過言ではありません。今となっては手を入れると莫大な費用が掛かってしまうと思いますから、しょうがないことかもしれません。

Russian Style Street, Dalian, Liaoning, China

一般的な価値観からいえば、歴史的遺産が不当な扱いを受けていると憤りを覚えるかもしれません。未来に継承して、永く守り続けなければならないと思うかもしれません。これらの建築の価値は計り知れないものです。しかしながら私は、100年前から現在までどうしてこのような不当な扱い方を受けてきたのか、といういきさつにも興味があります。
戦後中国では、共産党が台頭し、毛沢東の時代に文化大革命などで歴史的遺産が排除され、鄧小平の時代に改革開放で経済が著しく発展し、貧富の格差が広がりました。そしてその中で、ロシア人や日本人が支配した時代の建築物が、現在このような扱いを受けています。歴史的建築物が綺麗に保存されているよりも、むしろ生々しい歴史の爪痕が残されているように思うのです。

Russian Style Street, Dalian, Liaoning, China:猫

そして100年経った後に、私はこの場所を訪れました。
母の地元であった雑司が谷の霊園、一人暮らしをしていた茗荷谷近くにある伝通院、そして大連。
敬愛する夏目漱石ゆかりの土地に、意識もせずに辿り着いていた私が、歴史に翻弄されたヤマトホテルの建築と出会う。そこには私しか分からない、漱石との一期一会を感じます。こういった個人的な出会いや物語が綿々と紡がれていきながら、歴史は過去となって忘却の彼方に消えていきます。ヤマトホテルも、裏通りの邸宅も、様々な人々の思いや生活が行き交っては、朽ち果てていったのかもしれません。歴史は決して永久不変なものではなく、実際は淡くて脆いものばかりなのかもしれません。

Scroll to top