ロックと受験と担任教師

大人になっていろいろと振り返ると、私は様々な人たちに支えられてきたように思います。
その中のひとりに、高校時代の担任の先生がいます。

あれは高校二年の終わり。
神保町の書店で受験の書籍を手にしたとき、私は美大に行きたいと思い立ちました。

私は当時、美術館に通い詰めていましたが、芸術的な仕事に就こうと思っていませんでした。なぜならアーティストは普通に暮らせるような職業ではないと思い込んでいたからです。
しかし、受験の本のなかに「デザイン学科」を見つけ、グラフィックデザイナーなら現実的な職業だと思い直しました。まさに目から鱗が落ちたような心持ちで、その後に両親や友人に相談し、美大受験に挑むことになりました。

美大専門の予備校にも入り、私の受験生活が始まりました。
高校の授業が終わるとすぐに予備校へ向かい、夜遅くまで絵の勉強をしました。
高校では進学クラスに入っていたため朝が早く、さらに授業も8時間ありました。予備校は夜11時頃に終わり、帰ってから高校の予習復習をする毎日。寝る時間はあまりなく、体力的にきつい日々でした。しかし夢が見つかり、それに向かって勉強するのは楽しいものでした。

そんななか、英語を担当していた先生がある日、授業の途中で受験大学について話をしました。
大学を合格するためにより合理的な戦略が必要だというような内容でした。
彼は経験を重んじる初老の先生でしたが、自身の考えを押し付けるような雰囲気がありました。彼は、
「美大なんて目指そうとしている生徒がいるみたいだが」と切り出しました。
彼いわく、今まで美大に行った生徒はこの高校ではいないし、デッサンの試験があり、座る位置で難易度が変わってしまうから不利になる。将来も不安定だし、そういうのを目指すのは無謀ではないか、ということでした。

私はそれを聞いたとき、とても悔しい気持ちになりました。
しかしその先生も考えがあって言ったのだろうし、通っていた高校には美術の授業がなかったので、確かに不利な受験になると思いました。経験のある大人が言う通り、私は無謀な選択をしたのです。

しかし、応援してくれた先生もいました。
それは私の担任で、角刈り頭の強面(こわもて)の先生でした。
彼は生徒のことを表立って思いやる雰囲気はありませんでしたが、愛嬌のある兄貴のような先生でした。

私は登校時、彼に60年代のロックのテープ(確かジャニス・ジョプリンやジミヘンなど)を没収されたことがあります。彼はテープを見ると、
「塩澤、こういう趣味してんだ」と言いました。
私が「はい」と答えると、彼は「いい趣味してんな」と小声で言いました。
そして放課後に「塩澤、ジャーマンメタルは聴くのか?」と質問してきました。
私が「あまり知りませんけど、ちょっとだけ聴いたことがあります」と答えると、捨てられるはずだったテープを渡して、
「次から持ってくるなよ」と言いました。
彼は、ロックをこよなく愛する人だったのです。
それから彼とロックの話をするようになりました。60年代から80年代までジャンルもさまざまで、彼はいろいろ薦めてくれました。彼は愛嬌もあり明るい性格でしたが、生徒と深く交流する雰囲気はありませんでした。しかしロックを通して彼の人懐っこい内面を垣間見ることができました。しばらくそんなやり取りが続きましたが、次第にお互い忙しくなり、話さなくなっていきました。

それから月日は経ち、私は受験勉強で寝不足の毎日でした。
担任の先生は私の受験先を知ると、一言「頑張れよ」と言ってくれました。
そして他の先生の授業中、私が眠くてぼやっとしていると、職員室を抜け出してきた彼はドアの窓から私を覗き「起きろ」という口真似をして何度も応援してくれました。
さらに放課後は「予備校に間に合わないから、掃除はしなくていい」とお尻を叩いて帰らせてくれました。

私も大人になったので、彼も私立高校のなかで窮屈なサラリーマン生活を送っていたことが分かります。
そしてまわりにあわせて厳しく罰しつつ、おどけながらも生徒と距離を一定に保ち、自分自身のバランスを取っていたのだと思います。しかし心のなかには、彼の好きなロックミュージックと同じような、熱くてあたたかい愛情が潜んでいたのだと思います。

今彼がどこでなにをしているのか分かりませんが、いつかまた会って感謝の気持ちを伝えたいと思っています。そしてクリエイティブの仕事をしている自分を見てもらいつつ、あらためてロックについて語り合いたいと思います。

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