与えるのが愛か、求めるのが愛か。愛について考えるとき、必ず意見の分かれるところです。大方の意見は相手に尽くして、自分への見返りを求めないのが本当の愛だといわれます。
私も若い頃はこの愛の本質について、夜通し考えたことがあります。恋人など具体的な対象がいると、喧嘩やすれ違いをきっかけに考える機会を与えられることがあります。そして小説や映画の主人公と比較したり、相手の感情を想像したりして、自分はどれほど勝手だったのかと反省します。しかし感情はそれを受け入れることができず、相手を許すことができません。そんな自分を情けなく思い、最後には訳が分からなくなってしまいます。
そしてそれは今でも変わっていないように感じます。やはり人は見返りを求めてしまうものなのです。見返りというと少し打算的に聞こえてしまいますが、自分を認めてもらい、受け入れてもらいたい気持ちと言い換えればいいのでしょうか。そのような感情は、相手に対してどうしても求めてしまうものです。
若い頃は、与えるか求めるかの二者択一で考えていましたが、最近はそのような考え方では愛の本質が見えにくくなるのではないかと思っています。このふたつはどうしても切り離せないものですし、人によっても重視するバランスは異なると思います。しかし最近、ソーシャルメディアなどで「与える愛がすべてで、皆に愛を届けたい」と幸せなオーラを振りまく人々を目にすることがあり、それはちょっとどうかなあと胡散臭く感じることがあります。もちろん人によって愛の捉え方は異なると思いますが、私はそんな人々は心のバランスが少し崩れているのではないかと思ってしまいます。
たしかに私も、見知らぬ人とすれ違ったら思いやりを持って接したいと思っています。私の書く小説も見知らぬ読者の一助になればいいなと思っています。しかしそれは、私の手の届く範囲までです。もっとも大切なのは恋人や家族や友人で、彼らのために愛を与えたいし、愛を貰いたいと思っています。それくらいの許容量が私にとっては自然で、相手に対してお仕着せでもなく責任の持てる範囲なのではないかと思います。
一個人の持てる愛はイデア的なものではなく、与えようとすれば求めもし、与える範囲にも限界があるのだと思っています。それは人間が完璧な存在ではなく、とても弱い生き物だからなのだと思います。しかしその動物的な限界を伴ってこそ、愛というものが成立しているのだと思います。