極端に不幸な環境にいなくても、人はもっと幸せな場所がないかと求めてしまうものです。そしてそんな環境に身を移してみるものの、次第に不都合なものが周りに増え始め、再び「ここではないどこか」へ移りたいと思ってしまいます。
「今の自分が幸せだと気づけない人に、幸せは訪れない」という言葉がありますが、確かにその通りだと思います。しかし、あらゆる名言を目にしても、人は自身の実感がないかぎりそれを本当に受け入れることはできません。名言を知っているふりをしても、もしくはその場で感動したつもりでも、しばらく経つと忘れ去ってしまうものです。この先に生き続ける長い間で、そんな名言の意味を忘れ、再び不幸な気持ちになるものです。そして過去を振り返り、凡庸だと思った時間が、実は幸せだったのだと気づいたりもします。
さて、2011年の3月10日までは、私たちは幸せだったのでしょうか。そして今現在、生きていることは幸せなのでしょうか。一般的な測りにかければ、きっとそうなのでしょう。そして肯定的に考えることこそが、次の幸せに繋がっていくことなのだということも分かっています。しかし人間の感情というのは、そんなに簡単なものではありません。電極のように陰性と陽性にスイッチひとつで切り替えることもできませんし、聖人君子のように徳を持った人ばかりではありません。今現在を幸せか不幸かも分からず、過去どうだったのかさえ思い出したくないことだってあります。
しかし、どんなかたちでさえ、幸せにありたいと願う気持ちは共通すると思います。その幸せが分かりやすいものなのか、ささやかで分かりにくいものなのかは人それぞれではありますが、どうか被災された方々には、周りの価値観に左右されない幸せの在り方を見つけてほしいと願うばかりです。そして被災をされていない方々も、誰かの目を気にすることなく自身の価値観で幸せを見つけていってほしいと思います。なぜなら、自分のありたい姿さえ見いだせなければ、他者を気遣うことさえできないと思うからです。
最近、巷で溢れている思いやりやおもてなしの心は、見せかけだけ繕った薄っぺらいものだと感じています。「周りの不幸な人を思えば、自分は幸せな環境にいるのだ」という感謝の視点は大事だとは思いますが、それぞれが自分自身を顧みて、肚(はら)のなかで混濁した気持ちを味わったうえで、他者への幸せをはじめて思いやるべきだと思います。その理由は、言わずもがなです。自分の幸せを探ろうともしない人には、他者の幸せを理解するスタート地点につくことさえもできないからです。
世論に流されず、自分の価値観を持つことは、とても大事なことだと思っています。