五月も終わり、梅雨の季節がやってこようとしています。東京は蒸し暑くなり、季節は春から夏にいつの間にか代わっています。
最近は野鳥の探索を楽しむ日々ですが、植物の観察も相変わらず続けています。以前咲き誇っていた花々がいつの間にか姿を消し、今はドクダミやイネ科の植物が幅を利かせるようになりました。
鳥たちも巣立ちを終えて、幼鳥が親鳥に連れられて餌をついばむ光景が見られるようになりました。私たちの知らないところで、季節は移り変わっています。
近所の護国寺を探索しても、夏の景色が広がっていることが分かります。私は以前、この辺りに住んでいましたが、その頃も今と変わらず季節は巡っていました。
長期滞在していた中国での仕事を終え、東京での暮らしも一巡しました。相変わらずアメリカに出張に行けだとか、上海の同僚を手伝いに行けだとか、仕事はめまぐるしく変化します。少し前まではそんな生活も楽しくて誇らしいと思っていましたが、正直なところ今の心境は「この場所で十分」といったところです。
約十年前、フリーランスで仕事をしていたときにも同じことを思っていました。あの時も護国寺の霊園を歩きながら、一日毎に変わる季節の変化に心を奪われていました。自身のペースで過ごす野良猫を見ながら、そのようにありたいと思っていました。そして今でも同じような気持ちが込み上げてきます。
それでもまだ、浮き世を捨てた生活を送るには覚悟が足りない気もしています。機械のように働きながら、適度な刺激と安定した収入を得たうえで、週末に流浪な生活を楽しむのが最もバランスが取れているとも思います。
中国の仙人や悟りを開いたシッダールタは、この境地を極めたのだろうと思います。すべてを捨てて、身の回りにある何気ないものに安らぎを見いだしていたのだと思います。
護国寺の大きなお墓を見ながら、俗世間の欲望に人生を費やすのはもったいないと思いつつも、意地や名誉や他人の目を無視できない自分がまだいることに、生きることの難しさを感じる今日この頃です。