相互の価値観

人の考え方はそれぞれ異なり、詳しく話を聞いたとしても首をかしげることもしばしばです。「そんな考え方もあるんだな」と感心することもあれば、いつまでも理解できないこともあります。

東京都足立区宮城

これを価値観の違いと言うのでしょうか。
大事にしているものが異なるため、同じものを見ても異なる意見しか出ないときがあります。そんなときは、ついつい自分の価値観が優れていると思いたいがために、同じ考えを持つ人の賛同を集めたり、理屈で固めて論破しがちです。

相手を完全に無視してしまう方法もあります。関わってもしょうがないと諦め、距離を置いてしまったほうが楽だと考えます。
不利益を被る可能性があるので相手に迎合してしまう方法もあります。会社の上司や顧客が良い例かもしれません。思考を停止して、行動を価値観から切り離してしまえば、楽にその場を切り抜けることができると考えます。
実際には、相対する人たちの価値観も様々なので、自分に「合う、合わない」に二極化せず、緩やかなグラデーションを描くように人々との関係値をより分けています。

そうして人は自身の価値観を守りつつ、社会とのバランスを持って暮らすことができます。
しかしながら、簡単に割り切れないのも事実です。
人は何かしら他人に共感を求め、価値観を受け入れてもらいたいと願っています。だからこそ、否定されるのが嫌でたまらなく、逆に避けようとするのだとも思います。

私も価値観が近い人々と一緒にいるほうが楽だと思っています。また、私の価値観は偏っているため、多くの人々と接するのは疲れます。しかしながら、実際は相容れない人々と一緒に過ごさなくてはならないため、その場に身を置いて、先ほど羅列したような接し方を組み合わせて日々を過ごしています。自身の価値観を認めてもらいたいと思うこともありますが、最近はそういった気持ちも薄れてきました。なにか意図があるとき以外は、あまり主張しすぎず、相手の価値観を侵すようなことはしたくないと思っています。

このように色々と気にかけていると不満が溜まり、人は欲求の捌け口を求めてしまうものです。最近よく見かけるのは、インターネットで批判を繰り返すことです。匿名でないにせよ、ソーシャルネットワークで誰かの批判記事をシェアし、はっきりと言葉にせずに「なんとなく」を装って価値観の主張を行なったりします。また、価値観よりも矮小な感情で、多数が同調していることをいいことに、自身もそこに加わる傾向も見られます。いわゆる「煽り、煽られ」というものですが、そもそもの発端が捌け口であるために、時間が経つとどうでもよくなります。

以前は仲間内だけで会い愚痴をこぼしているだけでしたが、インターネットによって伝播の範囲が拡大され、価値観とも、一時の感情ともつかぬ主張が社会全体に広がっています。
人の気持ちや考え方が広まることは、相互理解や全体理解に役に立つことではありますが、少し立ち戻って、なぜ主張するべきなのか、どのように伝えるべきかを考える必要があるのだと思っています。

ツバメ

その際には自身の価値観がヒントとなり、それを芯として考えていくことが重要なのではないかと思っています。その価値観が「なぜ相手に理解されないのか」を突き詰めていくと、自身も相手の価値観を理解できていないことに気づくからです。
相手を理解する気持ちがなければ、自身の価値観を受け入れられることもなく、捌け口として批判を繰り返したとしても、相手に配慮する気持ちがなければ、いじめや対立を生んで世界が醜くなっていきます。
私自身も心が狭く、なかなか人を受け入れられません。きっとどこかで大きな壁にぶち当たるのだろうと思いますが、日々その壁が低くなるように、努力していきたいと思っています。

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