運命や巡り合わせ、という言葉があります。確かに長いこと生きていると、そのように感じる場面に幾度も遭遇することがあります。
中学生の頃、授業中に窓の外を眺めながら「自分が大人になった時に心を通わせる人は、今も自分の知らないところで生活しているのだな」とぼんやり考えていたことがあります。中学生らしい、何とも恥ずかしい発想ではありますが、実際に最近知り合う人々は、中学の頃には全く接点がなかった人々です。
人はそのような相手に、なぜ巡り会ったのかと不思議に感じ、神の御業(みわざ)や運命だと感謝するのでしょう。私にとっても、そのような出会いは本当に尊いものだと思っています。
しかしながら、偶然に巡り会っただけでは恐らく駄目なのでしょう。自分で追い求める気持ちや、出会いに価値を見出そうという気持ちが欠けていては、掴むものも掴めないのだと思います。
例えば、私は昨年から野鳥探索をしたり、野花の観察を始めました。野鳥の雛が巣立つ場面に遭遇したり、季節ごとに草花が移り変わるのを目の当たりにして心を躍らせています。まるで世界が様変わりしたように感じているのですが、これらも元々はいつも私の傍に存在し、遭遇する機会は無数にあったように思います。自分自身が意識することがなければ、出会いやきっかけがあっても、無駄に終わってしまうものなのだなと、最近よく思います。
しかしながら、感じることのできるタイミングも全て合わせて「運命」と呼べるのかもしれません。それでも、心のひだを常に敏感にし、周りに関心を持つことは、良い巡り合わせに遭遇する確率を高めるのだとも思います。平凡な境遇だと決めつけて毎日を過ごすのではなく、少し気持ちを外に向けていくことが、運命的な出会いに結びつくのだなと思います。