ぼんやりと仕事のやりがい

新たな職場に移って一ヶ月が過ぎました。まだまだ不慣れなところがありますが、素晴らしい上司に恵まれたおかげで今のところ事なきを得ています。

東京都葛飾区柴又:菊

「仕事の目的はなにか」という疑問を人に向けると、三者三様の答えが返ってきます。基本的には「対価を得ること」なのでしょうが、その「対価」とはなんなのだという疑問が新たにわき起こってきます。大半は「お金」ということになるのでしょうが、「やりがい」というものも含まれてくるのだと思っています。

私にとってのやりがいとはなにかと言われると、最近では「社会の役に立つこと」だと思っています。さらに突き詰めていくと「失われつつある歴史や文化の継承、それに介在している人々が幸せであること」なのだということが最近わかってきました。また、自然を守ることに対してもやりがいを感じるのだと思います。

昨晩「新日本風土記」に取り上げられていた紀伊半島内陸にある十津川村では過疎化が進み、伝統的な職業や高度成長期に流行っていた商店、祭事に参加する若者などが衰退しつつあることを知って危機感を覚えました。また、私が個人的におこなっている活動も、東京で失われつつある商業にフォーカスしています。このようなものが失われていく際に「ニーズの変化」や「資本主義の宿命」などと主張する方々もいますが、向き合うことを放棄しているようにしか思えず、悔しい気持ちになります。

しかしながら、そう言う私も「自分が携わる仕事では貢献できないだろう」とあきらめてしまうのですが、新しい職場では会社のビジョンに「他者の幸せ」を掲げています。社内には何百人という社員がいるので考え方は一様ではありませんし、私の社歴も浅いのでまだ明確にはわかりませんが、もしかするとやりがいを成就できるのかもしれないという希望的観測がほのかに芽生えています。

実際には資本主義の中でビジネスをおこない、理想とする他者の幸せを実現できないかもしれません。共産主義や社会主義であってもおそらく同様でしょう。チェ・ゲバラのような指導者はなかなかいませんし、彼も若くしてボリビアで命が尽きることがなければどのような思想に至ったかはわかりません。しかしながら、少しずつ社会がよい方向に向かった先に現在の基本的人権が確立されたのは事実ですし、小さな成果であったとしても前進であることは確かなので、あきらめてはいけないのでしょう。

とても仰々しく青臭い話ではありますが、最近はそんなことをぼんやりと考えています。

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