実感を通した感情

以前「実感の記憶」というコラムにも書きましたが、人は経験した瞬間の気持ちを忘れてしまうものです。さらに、経験していないことなら分かりもしません。ですから他人の行動についてはもっともなことを言えますが、自分に同じことが起きたときに同じように行動できる保証はありません。

東京都北区王子:飛鳥山公園

例えとして、先日開催された知人のパーティーでの出来事をお話しします。
私は都合が合わず欠席しましたが、私の同僚は出席しました。
彼はそのパーティーの席で、以前会社に勤めていた人物と再会したそうです。私と同僚、再会した人物の三人は同じ会社に勤めていましたが、その人物のみ転職していました。

その人物は会社で一緒だった頃、あまり良い印象がありませんでした。口を開けば会社や上司、同僚の愚痴ばかり言い、自分自身は悪くないと主張していました。そのくせ朝起きて鏡の前で自分を見つめ、ロックスター気取りに「自分をぶん殴ってやりたくなる」と言って出社していたそうです。
私たちは正直、その人物の言動に飽き飽きしていましたが、彼が会社を辞めてから存在を忘れていました。しかしパーティーの席に現れ、同僚に見つけると開口一番「なんか評判よくないですよ」と言い放ったそうです。同僚は自分のことを言われているのか、会社のことを言われているのか分からなかったそうですが、気分を損ねたのは言うまでもありません。それを聞いて私も同じように気分が悪くなりました。

もし誰かが同じような体験をして気分を損ねたとき、私は「もう係わり合いのない人物なんだから、忘れたらいいよ」とアドバイスをするところでしょうが、私自身が嫌な気持ちのときはなかなか忘れることができません。人は現場で直接体験すると、感情が高ぶって冷静になれないのです。

しかしながら、私はすでに落ち着いています。こういうことはすべて忘れてしまうのが最良の方法だと思いますが、私は敢えてこのコラムで記しておきます。
なぜならこの「実感を通した感情」を記憶に留めたまま、客観的に観察したいからです。
このようにしておけば、感情に溺れず冷静にそのときの気持ちを思い出すことができ、誰かにアドバイスを与えるときに自分のことのように考えることができます。さらに小説を書くときに役立ちますので、敢えてこのように記しておきたいと思っています。

人間の感情は理性的でもなく、論理的でもありません。また、良心的ではいられないときだってあります。私は醜い感情も綺麗な感情もすべて記憶に留め、客観的に見つめ、受け入れていきたいと思っています。
また、少し冷静に見つめれば相手の性格も把握でき、理解に繋がることもあるかもしれません。しかしそこまですると綺麗事になりすぎて気持ちが悪いので、自分の感情の観察程度に留めておきたいと思います。

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